―エラコ皮膚炎はニンギョウヒドラ刺症―
加藤直子皮膚科スキンクリニック 院長 加藤直子
21年前の8月、市立小樽病院の皮膚科に、左前腕に蛇行状に配列する紅色丘疹と水疱と浮腫を有する23歳の男性が受診しました。当時36歳だった私は、何か毒物皮膚炎だと思いました。
すると患者さんが「エラコだあ。」と言いました。私、「?」すると生粋の小樽っ子の看護師さんが「先生、釣りの時のエラコです。」と助け船を出しました。私、さらに「??」その後よく聞くと、エラコはミミズのような形の海中に住む生物(環形動物門多毛綱ケヤリ科)で、釣り餌にするため釣り具屋さんで売っているが、海中からエラコの棲み家(自身の分泌した粘液で砂粒などを固めて作った硫酸紙様の強靭な棲管)を捕獲してきてそこから引き出して用いることもある、エラコに触ると時たま指先に水疱が出るので、皆はそれをエラコかぶれと言っているとのことでした。
私にとってはすべてが初耳でした。患者さんは2日前にウニの捕獲の目的で海中に素潜りした際に、エラコの棲管に左前腕が接触したことを「エラコだあ。」と言ったわけです。
「エラコ皮膚炎」は1週ほどで全治しましたが、私はエラコとその棲管を釣り具屋さんから購入し写真を撮りました(図1)。
しかし、環形動物であるエラコで時たまかぶれるということが納得できず、「エラコ皮膚炎」について調べました。結果はご存じの方も多いと思いますが、強い炎症の原因はエラコの棲管上に共生付着している腔腸動物門ヒドロ虫綱のニンギョウヒドラの刺胞毒でした。
ニンギョウヒドラは淡水クラゲの一種で、人形の形をしたヒドロポリプ型でエラコの棲管上に共生していますが(図2)、自由遊泳性のヒドロクラゲ型はエダクダクラゲと呼称されています。
つまり「エラコ皮膚炎」はクラゲ刺症だったわけです。
時たま「かぶれる」のは新鮮な棲管に触れればクラゲ刺症を起こしますが、捕獲後時間が経過するとニンギョウヒドラは死に絶え刺症は起こらず、パズルの謎が解けるように私も納得がゆきました。
その後好奇心から、クラゲの生態について専門家である北海道大学理学部動物系統分類学講座の久保田信博士に教えを乞いました。翌年、18歳の男性を治療しましたので「ニンギョウヒドラ刺症ーいわゆるエラコ皮膚炎の2例」(臨床皮膚科46(6): 409-413, 1992)として投稿しました。
これは私が32年間に書いた100編以上の論文の中で最もお気に入りの1編です。
私は二人の子育てをしながら休職を経験せず皮膚科医を続けてきました。
私の心がまえは以下です。
- 1)目の前に来た仕事を、自分の倫理観に従って全力で成し遂げるよう努力する。
- 2)辛い時は自分が成長する時と心得てじっと我慢しながら頑張る。
- 3)わからないことはメモしておいて、その日のうちに調べる。
- 4)若い医師、他科の医師からの問いかけに誠心誠意応えるよう努力する。
心がまえは大事ですが、私が休まず診療を続けられたのは、子供をみてくれた両親、常に我慢強く話を聞き支えてくれた夫(私のメンター)、ともに勉強し的確なアドバイスをし応援してくださった皮膚科の先輩、同輩、後輩の先生達の御蔭です。そこで、若い先生達への私からのアドバイスは以下です。
- 1)メンター(仕事や人生に効果的なアドバイスをしてくれる相談相手)を持とう。人間は精神的に一人では上手く生きられない。
- 2) 何でもよいから一つのテーマを半年間勉強してみよう。パッチテストでも紫外線治療でも白癬菌でも基底細胞癌でもよい。講演会などもすべて出席しようとせずそれに限定して出席する努力をすると、皆からあれについてはこの人と頼られ重宝がられて仕事と勉強のしがいが湧く。
- 3) プロとして生きることは人間として生きることと同義だと認識しよう。そうすれば皮膚科専門医を取得するという簡単ではない作業を自分の義務とわきまえて、目標を持って毎日を生きられるはず。
- 4) 専門医を取得する頃には、何かスペシャルなテーマが見えてくるかもしれない。見えていなければ、テーマを決めて生涯楽しむつもりで取り組もう。サブスペシャリティーは一朝一夕にできるものではなく、自分はガウディのサグラダ・ファミリアのように造られながら修復も受け続ける未完成品だと心得よう。焦りは禁物だけれど、努力は大切。知識は力。
若い女性の良医が育つためにはサポートが必要です。過重労働による肉体的・精神的破綻の回避のために、行政からの24時間保育などの環境の整備、大学や病院でのチーム医療の徹底や勤務形態の多様化の容認などが求められます。しかし最も大事なのは若い女医さん達の毎日をプロとして生きる覚悟です。冒頭の「ニンギョウヒドラ刺症」の診断と執筆の経緯は、私が好奇心とプロとしての覚悟を持って毎日努力していることの証左になればと思い書きました。私は16年間勤務した北海道がんセンターを2010年3月で辞職し、4月からクリニックを開院します。働く場所は変わっても毎日を生きる心がまえは変わりません。